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05/30

 最近、気になる記事を読んだ。20代~40代のFacebookユーザーのうち、43.7%がやめたいと思ったことがあるとのこと。その理由のうち最も多いのが、「他人の「リア充」投稿にうんざりしてしまう」(40.2%)からなのだそうだ。

 えー。人の「リア充」って、そんなにうんざりする?Facebookでつながっているなら少なくとも友人・知人なのだろうし、そういう人たちが充実しているならいいことじゃん。気に入らなければ読まなきゃいいんだし。そもそも、ブログと違ってFacebookは即時性と簡潔性が特徴だと思うので、難しい悩みや問題提起をする場ではないと思っているし、よかったことぐらいしか書けないんじゃないのかなあ。
 似通った問題として、家族写真の年賀状に文句を言う人もよくいる。たしかに、人の子供がどれくらい成長したか、そんなに興味があるわけじゃないけど、その人が一番大切だと思っている写真を年始の挨拶に載せてくるのは、微笑ましいじゃないですか。私は、少なくとも干支のイラストが印刷された既成の年賀状よりはよほど嬉しい。ああ、変わりなくご家族円満にやっているのだな、と分かるだけでもいいじゃないですか。

 私は、人の「リア充」投稿を読むのが好きである。「リア充」話を聞くのも好き。幸せというものは、案外得難いものであって、形にしないと通り過ぎてしまうのである。もちろん、未来永劫続くものとも限らない。だから、人はそれを文章や会話で表現することで、今、自分が幸せと感じることを意志決定しているのである。周囲の人間は、はからずも立会人としてそれを見届けているのである。
 そして、人の「リア充」と自分を比べる必要もない。私は、人の「リア充」投稿を読んで素敵だなあとは思っても、羨ましいと思うことはあまりない。何に幸せを感じ、何に充実感を得るかは人それぞれである。だからこそ、人の「リア充」にもっと寛容であっていいのではないかと思う。 
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05/27

 小金井市で、女性シンガーソングライターがファンと称する男性に刺されて重傷を負った。事件現場や被害者の在籍する大学が比較的近所でもあり、衝撃的な事件だったし、その後の経過も気になっている。

 今、とにかく願っていることは、被害者が命を落とさず回復してくれることだ。報道によれば、犯人は180㎝を超える大柄な柔道経験者だとか。そんな人につきまとわれて、20ヵ所も刺されるなんて、どんなに怖かっただろう。命あるうちに救急搬送されて本当によかった。何とか、命をつないでほしい。

 三鷹市の女子高生ストーカー殺人や、逗子のストーカー殺人、古くは桶川市のストーカー殺人を例に挙げるまでもなく、この手の事件が後を絶たず、本当に胸が痛む。被害者は、亡くなった後も、事件後の捜査や報道で、何度も殺されているような気がする。逗子の事件で亡くなった女性の夫は、「妻はストーカーにおびえていただけではなく、それ以上に毎日を生き生きと楽しんでいたことを伝えたい」として、生前に書いた手紙などを公開したが、その気持ちもよく分かる。

 ストーカー事件の増加は、コミュニケーションの手段の多様化と関わりが深いと思う。「恋」が「盲目」なのは今に始まったことではなく、誰しも恋をするとバカになるものだし、そもそも恋は妄想や思い込みに近い。長所と短所を兼ね備えた人間を、本当に理詰めで好きになることなんかできないし、妄想は恋の翼である。しかし、他者の目や意見が入ってくるうちは、まだ我に返る瞬間があった。でも、当事者同士の閉じられた関係性を確立する携帯の普及、双方向のやりとりがなくても一方的に伝えたつもりになれるメール、さらには直接知らない人とまで出会えた気分になれるSNSなど、コミュニケーションの手段は多様化・複雑化している。手段の多様化と相反するように一人一人は孤立化し、自己の妄想を好きなだけ増幅できる環境が整っているのだ。まあ、ストーカーの感情を恋愛などと呼びたくもないのだが、加害者が本当に立ち直るには、刑罰よりも医療やカウンセリングが必要なのかもしれない。それも、本人が自分の過ちを認識し、やめたいという意志がなければ効き目はないだろう。

 命を奪うということは、相手への所有欲や支配欲を究極的に満たすことだ。どんなに重い刑が下されても、逗子や桶川の事件のように加害者が殺害後に自殺していたとしても、本人は満足だろう。自分の欲望は完璧に満たされたのだから。そのことが悔しい。
 だから、今回の被害者には、必ず生き延びてほしい。被害者が心身に受けた傷を回復するには時間がかかるかもしれないが、彼女が健康を取り戻し、幸せで充実した人生を闊歩していくことが犯人に対する最大のリベンジになるのだから。

LAST GIGS

カテゴリ:日記

05/24

 一輪車は、9歳ぐらいまでに乗れないと、それ以降に乗れるようになるのは難しいと聞いたことがある。絶対に無理というわけではないけれど、小さい子供がいつの間にか乗れるようになるのと違って、大変な努力を要するという。人間の能力の発達には適時性があって、バランス能力や調整力は小さいうちによく発達するのだそうだ。逆に、筋肉や持久力が発達するのは中学生ぐらいからで、それよりも小さいうちに筋トレなどしても、効果が出ないばかりか成長に悪影響だという。

 体力に限らず、興味・関心や感受性にも、適時性というものがあると思う。最近のヒット曲は、何を聴いてもそれほど心に響かないのだが、昔は心をわしづかみにされるような音楽との出会いがあった。私にとって初めてのそんな出会いは、14歳のときに出会ったBOφWYの「B・BLUE」だった。それまでロックなんて聞いたこともなかったのに、なんてカッコいいんだろう!と心ときめいたものだ。氷室京介のヤンキーっぷりも、ドキドキするような歌詞も、それなのにメロディアスで美しい旋律も、全てに惹かれた。しかし、それからほどなくBOφWYは解散してしまう。BOφWYのラストライブ「LAST GIGS」のポスターをCDショップで見かけたけれど、当時はまだ行けなかった。今でもそれが悔やまれる。
 その後、ボーカルの氷室京介はソロデビューし、ソロでの初コンサートで東京ドームに行ったのが、私の初めてのコンサート体験である。当時、私には一緒にコンサートに行くような友達はいなかったので、一人で行った。とても楽しかったが、ステージの氷室京介が遠くて小さく、BOφWYのステージでないことがやっぱりちょっと残念だった記憶がある。中3か、高1だったのか思い出せない。

 そして、昨日ふたたびの「LAST GIGS」に行ってきた。氷室京介が、ライブ活動を引退するという。こんな日が来るとは。初コンサートと同じように、今回も一人で出かけた。会場も同じ、東京ドーム。昔と少し違うのは、客の年代が変わっていること。若い人もいたけれど、やっぱり同年代の大人が多かった。私と同じように、一人で来ている女性もちらほら。きっと、同じようにBOφWYに出会って、氷室京介を聴きながら大人になった人たちなのだろう。
 やがて、ステージに氷室京介が現れた。周囲の一人で来ている女性陣が多くそうであるように、なぜだか涙が出た。29年前の曲を、今ライブで聴けることに、理屈なしで感動した。演歌でもないのにね。でも、あらためて彼の曲が、時間を超えても色褪せない魅力のある曲だったことが嬉しかった。そして、年月を経て、彼の曲が成熟し、大人の魅力を増していったこともあらためて感じた。今聴いて、あらためて心に染みる曲がたくさんある。
 しかも、カッコいいんだ、氷室京介が。私も40を超えてしまって、年をとることの大変さはそれなりに分かりつつあるのに、どうやってあのカッコよさをキープしているのか。髪を逆立てていたときのような昔のとがった感じは抜けて、笑顔も柔らかくなった。でも、相変わらずセクシーで、さらに言えば相変わらずヤンキー感も抜け切れず、本当にカッコよかった。

 BOφWYに出会った頃の私は、人生で一番ささくれていた。彼の音楽に、どんなに慰められたことか。
 「このまま何もできないで年をとっていくのはゴメンさ」
 あの頃は、出会いや経験がすべて新鮮で、いろいろなことに感動したり傷ついたりしていた。今の私にとっては平凡で退屈なものも、すべてが刺激的だった。今は、欲しい物は大体何でも手に入る代わり、大切にしなくなったようにも思う。あの頃は、やっと買ったCDを擦り切れるほど聴いていたのにね。逆に、あの頃は何とも思わなかったことが、あらためて貴重なものだと感じることも増えている。たとえば、毎年当たり前のように咲く花も健気で愛おしい。東京ドームで氷室京介がどんなに小さく見えても、同じ空間で時間を共有することの価値を知っている。
 私は、昔の私が見て、憧れるような大人になったのだろうか。
 氷室京介のラストライブで、等しく流れてきた時間の長さを思った。
 私も、カッコいい大人でありたい。これから先も。 

ソロモンの偽証

カテゴリ:日記

10/08

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 DVDで、映画「ソロモンの偽証」を観た。前編を見始めたら止まらなくなって、後編まで一気に見てしまった。
 一人の中学生が学校で死んだ。学校と警察は自殺と判断するが、いじめによる殺人だという告発状が届く。やがて生徒たちは、自分たちで裁判をやることを決める―。純粋さと残酷さを併せもつ中学生と、それを取り巻く大人たちが織り成す物語に、息つく暇もなかった。

 この作品のすごいところは、それぞれの立場の人間を、いわゆるステレオタイプなキャラクターとは全く異なる描き方をしているところだ。
 加害者が常に悪人というわけでもないし、被害者が常に善人であるわけでもない。過ちは全て悪意から起きているわけでもないし、善意が人を傷つけることだってある。誰だってたまにはいいことをするし、逆に魔が差すこともある。
 人の命はやはり重い。死という取り返しのつかない現象を前にすると、議論の余地すらないような気がする。でも、なかったことにはできない以上、残された人間はいつか受け入れることができる日まで、事実を咀嚼するしかないのだ。

 しかし最近、何か事件が起こるたびに、被害者の関係者でもないのに、正義を振りかざしてネットで誹謗中傷したり罵詈雑言をぶつけたりする例が後を絶たない。この作品を見て、現象だけを見て善悪を判断することはできないとあらためて思った。勝手な思い込みで一方的に誰かを追い詰める人は、自分がすでに加害者であることに気付いていない。そもそも、人を勝手に裁く権利は誰にもないのだ。

東北へ

カテゴリ:日記

09/16

 2011年3月11日に発生した東日本大震災。あれから4年半がたった。物見遊山で被災地を見に行くことには抵抗があったし、気まぐれにボランティアに行くことも自己満足に過ぎないような気がして、私は一度も被災地を訪ねていなかった。
 しかし最近になって、同じ時代に生きていながら、一度も現地に触れず、距離を置いていることも、いつか後悔するような気がした。今しか目にすることのできない現実をしっかりと見ておくべきだと思い直し、土日を利用して東北へと旅立った。

 被災した地域は広範囲にわたっているが、今回訪ねることにしたのは石巻・女川・南三陸町。いずれも、甚大な被害を受けた地域である。石巻では、市内ではすでに震災の爪あとはあまり感じられなかったが、日和山公園から概観してみると、震災前と風景が一変していることが分かった。大勢の子供たちが亡くなった大川小学校は、傷だらけの校舎が時間が止まったように佇んでおり、涙を禁じ得なかった。女川では、土地の造成がさかんに行われていた。女川駅の駅舎は真新しく、駅前の開発も進んでいる。「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ。」と書かれた横断幕のメッセージが印象的だった。
 南三陸町の民宿で一泊し、翌日は南三陸さんさん商店街へ。地元で商店をやっていた方々が集い、プレハブの仮設店舗を並べている。もともとあったお店だから、電気屋さんや日常衣料品店、写真屋さんなど、生活感のあるお店が多い。海鮮丼を食べたかったが、あいにくお腹がいっぱいだったので断念。。。
 商店街の隣に、南三陸ポータルセンターという交流施設があり、手芸品の作品展をやっていた。パッチワークやレース編みなど手の込んだ作品が飾られている。どれも見事だが、なぜここにこれが?と思いながら見ていると、地元の女性が話しかけてきた。「狭い仮設住宅に住んでいると、できることも限られるし、何もしないでいるとだいたいよくないことばかり考えてしまう。それで、お年寄りにも声をかけて、こういった手作りをやっているんですよ。こうして作品展で多くの人に見てもらえることも、励みになるんです。」とのこと。なるほど…私も手芸が好きなので、細かい手仕事に集中することで気持ちが落ち着くことはよく分かる。「狭い仮設でも場所をとらないように、工夫した作品なんですよ」と見せてくれた雛人形は、時期が過ぎれば折りたたんで収納できるすぐれものだった。
 その女性も、南三陸町で被災したのだと言う。「地元で美容院をやっていたのだけど、ずいぶん昔に、近所のお年寄りに、ここは地震が来たら津波が来るところだから、すぐに逃げた方がいいって言われていたんですよ。それを覚えていたので、地震の後すぐに車で高台に上がりました。」大震災は頻繁にあることじゃないから、お年寄りの言い伝えがとても大事。「本当に何も持たずに逃げたので、あれを持ってくればよかった、これも必要だった、と後から思い出すんですよ。でも、それで何かを取りに自宅に戻った人は、もうダメでした。」いざというときのために準備しておいた持出袋さえ、本当の非常時には気持ちが動転して忘れてしまったのだそうだ。うまい言葉もかけられなかったが、この人があの震災を生き延びて、地域のために役割を果たしていることに、心底敬意を感じた。

 行く前には、時機を逸したようにも感じていた東北旅行だったが、土地の雰囲気や変わりゆく今を感じることができて、やはり現地に足を運んでよかったと思った。日本は、これからも変わり続ける。その変化をしっかりとこの目で見守り続けたいと思う。

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